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ハタラクヒト Vol.3 幼魚水族館 広報 石垣 幸二

有限会社ブルーコーナー

誰もが魅了される海

その秘めた海の中には、未だ解明されぬ“誰も知らない”世界がある。
海の手配師と呼ばれるようになった石垣 幸二さんのルーツをご紹介していきます。

伊豆半島にある下田市で生まれ、物心ついた時には遊び場が海だった。
そんな今から40年以上前の話だが、素潜りでモリを使い魚や蛸などを獲って近所の料理屋さんへ売ってお小遣いにしていた時、とある疑問を抱くことに。

一生懸命獲った蛸がたったの50円にしかならなかった。
なぜならば、モリを使って獲った蛸は決して状態が良い物とは言えず、子供ながら「どうすれば高く買い取ってくれるのか」と質問を投げかけたところ、「もっと綺麗な物だったら高く買い取るよ」という、予想外の言葉が返ってきた。

子供ながらに、どうすれば良いのか考えた結果…だったらモリを使わず素手で獲ろう。
そうして獲った蛸が、以前の10倍である500円で買ってくれるようになった。
とある日も、同じように獲ろうとして手を伸ばしたところ、思わぬ痛手を負うことに。なんと指が切れる程の強い力で蛸が噛んできたのだ。その当時は、こんなに強い力で噛むという事実と、生体の状態によって10倍の値が付くことの2つを学ぶ経験となり、当時の経験が今の原点になった。

そんな幼少期を過ごし、海外で働くことに憧れ大学で語学を学び就学中にニュージーランドやオーストラリアへ訪れ、そのオーストラリアの地で潜水士の資格を取得した。
大学卒業後は海外永住を目指し海外に支社を多く持つ百貨店の外商員となるも、「一生を懸けて追いかけられる、何かのスペシャリストになりたい」と考えるようになり、導き出された答えが“海”だった。



幼少期の遊び場に“自分の欲しいものが全部あった”

自分自身の答えが出てからの行動は早かった。
外商員の仕事を辞め、水槽の掃除を行う小さな会社に潜水士として就職した。
水槽の清掃作業以外にも、大学時代に身につけた語学と営業センスで生体(魚)の注文を取り付けるも、仕入れる魚がマニアック過ぎて社内から批判が続出した。
今の時代でいう“バズる”確信と自信があったにも関わらず、周囲の理解を得られず居場所を無くし退職することに。

自分が求める世界は、必ず多くの人々を魅了させられるという思いを胸に、2000年3月。貰い物の中古の水槽とプレハブで「有限会社ブルーコーナー」を立ち上げた。


開業当初は希少な海洋生物を水族館に納入するという、想定以上に需要が少ない事業であった為に、夢と現実との壁に阻まれ経営はすぐに暗雲の状態に。
笑顔で支えてくれている家族の為にも、何とかしなくてはならないと苦悩する日々。
そうした不安定な生活を過ごしていた時、最初で最後のチャンスが舞い降りた。

それはモナコで行われる世界水族館会議への参加。子供の貯金まで下ろしてまでして掴んだ大きなチャンス。
今、当時を振り返ると夢の為でもなく、大好きな海の為でもなく、ただお金だけを追い求めている自分だったと。

そうして何とか世界水族館会議に参加した際、水族館生体納入業者のレジェンド フォレスト・ヤング氏が登壇し、世界のカスタマー(お客様)を前に想像もしなかった発表を聞くことになった。
その内容は、サメの輸送・飼育に関する失敗例を次々に発表していたのです。こんなリスキーな内容を発表したら、どの水族館もサメを買わなくなるのではないかと、フォレスト氏の発表を全く理解できない自分がいた。

発表を終えたフォレスト氏のところに歩み寄り、「大変立派な発表でした。ただ、何故あえてこの場で発表されたのですか」と質問すると、たった一言。

“君は、この仕事を何年続けていくつもりだね”

その言葉に思いきり頭を殴られたような衝撃を受け、呆然と立ち尽くすと同時に頭の中には起業した時の思いが蘇った。その時、心に決めたのです「世界一のサプライヤーになる」と。この先どんなに苦難が待ち受けていようとも、どんな事があろうとも世界で最も信頼されるサプライヤーになることを、それだけはぶれない事を心に強く誓った。

その後は、何より「信頼」を第一に国内外を駆け巡り、時には大損することも。
ある時にはアメリカの動物園に納入した、1匹40万円の「リーフィーシードラゴン」が1週間で全滅した。
生体保証の対象期間外ではあったものの、悩んだ末に全額補償する事を決意。当然、お金よりも信頼を優先した結果、会社の経営は更に厳しい事に。

しかし、この時はこの対応が思わぬ好転のチャンスとなるとは思いもしなかった。
しばらく経った頃「日本には、こんなにも高額な魚を補償してくれる、優良な企業がある」として、アメリカの水族館協会の冊子で紹介された事をきっかけに注文が殺到。
アメリカ中の水族館業界にその名を轟かせ、今では世界28カ国200を超える水族館に希少な海洋生物を納入する企業に成長した。


また、クライアントが希望する希少な生体を手に入れる仕事が認められ、いつの日か“海の手配師”と呼ばれるように。
その少年のように目を輝かせ、楽しみながら海洋生物と向き合う姿が様々なメディア等でクローズアップされ、海洋生物を取り扱うテレビ番組の監修や海外ロケのコーディネートや出演・解説を務める機会も増え、2011年には沼津港深海水族館の初代館長に就任し、世界初となる深海生物の捕獲や展示に至るまでの様子が、年間200本を超えるマスメディアで報道され、深海ブームの火付け役となった。

今の夢は、子供たちに“海のおもしろさ”を伝えていくこと

魅力ある海へ関心を持ち続けてもらう為には、海のおもしろさに気づいてもらえる場所が必要。その為に、自分たちの水族館と地元である伊豆の子供たちの為に海の学び舎をつくりたい。
海のおもしろさを知る鍵は夢中にさせることであったが、方法となる答えはなかなか見つからなかった。

とある日に磯の上に立ち見慣れた景色を見渡していた時に、その答えが降りてきた。
自分自身を今も昔も夢中にさせている、海そのものが持つ魅力を海での遊びを通じて伝えていけば良いと。
環境豊かな駿河湾の港や磯場などを住処とする、海の中を再現したらいいんだ。

このプロジェクトを成功させる為に多くの仲間に声を掛け、世界にない“自分たちの水族館を創ろう”。

鈴木香里武氏との出会い、そして幼魚水族館オープンへ

岸壁幼魚採集家としてメディアでも活躍中の鈴木香里武氏は、彼が幼少期の頃からの20年来の付き合い。少年時代から知っている間柄。

20代で水族館を作る!という長年の彼の夢を叶えるべく、鈴木香里武氏29歳の最後の夜に水族館館長に任命し、正式に契約を調印した。

また、私自身は伊豆半島のどこかで海の大学校と、専門特化した水族館をオープンさせたいと願っていた。

その2つの夢が重なり合って、誕生したのが幼魚水族館である。

鈴木香里武氏の頭の中を具現化する、ということで始めた幼魚水族館。
誰もやってなかったこと、誰も手を付けなかったジャンルにこそ挑戦したいという思いで立ち上げた。小さな体に壮大なロマン。つまり幼魚のうちは体も小さく泳ぐ力もないので、敵に狙われてしまう。彼らは彼らなりに創意工夫して生き残っている。その生き様にスポットを当てたい。そして、その先には幼魚のことを広く知ってもらいたい。友達になってもらいたい。それこそが幼魚たちの環境を守っていきたいという意識に繋がるだろう。それが幼魚水族館である。


世界で初めてのシラスウナギの常設展示も行っている


水族館に訪れた子どもへ、生体の魅力を分かり易く紹介する石垣氏


迫力の生き物に圧倒される子どもの姿

SDGsの理念の実現の為にも、幼魚たちの生態を知ってもらうことを通して、意識の変化をもたらし、海の環境や海の豊かさを守ることに繋がっていければと願っている


(この記事は 2022.6.8 の取材に基づきます)

プロフィール

水族館スタッフ 石垣 幸二Ishigaki Kouji

石垣幸二(いしがき・こうじ) 有限会社ブルーコーナー 代表取締役
1967年 静岡県下田市出身。
海外で働くことに憧れ抱き、学生時代より世界各国を訪問。
大学卒業後に就職した大企業を辞める際に、一生を懸けて追いかけられる“海のスペシャリスト”になることを決意。
2000年に有限会社ブルーコーナーを設立以降、世界中の水族館・博物館・研究施設等に希少な海洋生物の納入実績が認められ「海の手配師」と呼ばれる。
2011年に沼津港深海水族館の初代館長に就任。同館のトータルプロデュースを担う。
2022年に幼魚水族館をオープン。同館のトータルプロデュースを担う。
現在は、地元伊豆にこどもたちの為の「海の大学校」を創るべく、多くの仲間たちとプロジェクトを進行中。